LOGIN朝になっても、十二という数字は消えていなかった。
喫茶こもれびのカウンターに置いたノートパソコンの画面に、昨夜の配信アーカイブが残っている。
番組名は、まだ少し照れくさい。
『夜の商店街、まだ明かりついてます』
最大同時接続数、十二人。
総再生数、三十四。
コメント、二十七件。
どれも、昔の俺なら気にも留めなかった数字だ。
いや、気にも留めなかったどころか、見た瞬間に胃が沈んでいたと思う。
登録者八十万人の頃、同接が少し落ちただけで、俺は配信後に何度もアナリティクスを見直していた。何分で離脱されたか。
どの話題でコメントが減ったか。 どのゲームなら数字が取れるか。 次は誰とコラボすれば伸びるか。そんなことばかり考えていた。
十二人。
昔の俺なら、敗北の数字だった。
でも昨夜、こはるは言った。
「十二人も、いました」
その声が、まだ耳に残っている。
細くて、掠れていて、泣いた後の、でもどこか嬉しそうな声。
俺は、パソコン画面を見つめながら、冷めかけたコーヒーを飲んだ。
「まずい」
自分で言ってしまった。
悔しいが、まずい。
源三さんに毎日言われているせいで、味覚まで洗脳されてきたのかもしれない。
ソファの方を見る。
白瀬こはるは、毛布にくるまって眠っていた。
昨夜の配信後、彼女は卵焼きを一切れ食べ、白湯を飲み、それから力尽きるように眠った。
スマホはタオルに包まれたまま、テーブルの端に置いてある。
途中で何度か震えた。 俺のスマホも、何度も震えた。でも、昨夜だけは見なかった。
見るべきだったのかもしれない。
ネットの噂。
神谷レンからの連絡。 月乃こはね休止への反応。 クロユウの名前。それらは、確実にどこかで動いている。
でも、こはるが「おやすみなさい」と言って眠った後に、俺がそれを見て胃を壊している場合ではない気がした。
せめて朝までは、商店街の明かりをそのままにしておきたかった。
午前七時半。
外では、日向弁当のシャッターが上がる音がした。
この町の朝は、揚げ物の気配で始まる。
油の匂いが薄く流れてくる。
それに混じって、八百屋の親父さんが段ボールを潰す音。 どこかの自転車のブレーキ音。 遠くで犬が吠える声。商店街は、終わりかけているくせに、朝だけは律儀に起きる。
俺はパソコンを閉じようとして、手を止めた。
アーカイブ。
消すべきか。
そのまま残しておけば、誰かに見つかる可能性がある。
声が月乃こはねに似ていると気づく奴がいるかもしれない。 神谷レンが聞いたと言ってきた以上、もう安全ではない。消した方がいい。
理屈では、そうだ。
だが、コメント欄に残っている言葉が目に入る。
【眠れなかったけど、少し落ち着いた】
【白湯作ってきた。熱かった】 【商店街の話、また聞きたい】 【声、無理しないでね】 【卵焼き派閥で笑った】 【まずいコーヒー気になる】 【おやすみって言われて寝られそう】たった二十七件。
でも、その一つひとつに、誰かの夜があった。
昔のコメント欄は、もっと速かった。
拾いきれないほど流れた。
笑いも、罵倒も、煽りも、スタンプも、投げ銭も、全部が速度になって押し寄せてきた。でも、このコメント欄は違う。
遅い。
静かだ。 読み終わる前に次へ流されない。ちゃんと、一人ずつの顔を想像できる。
「……顔が見えるな」
俺が独り言をこぼした時、ソファの毛布がもぞりと動いた。
こはるが目を開けていた。
寝起きで少しぼんやりしている。
髪が頬にかかり、目元はまだ赤い。「起きたか」
こはるは小さく頷いた。
声は出さない。
昨日の夜に少し声が戻ったとはいえ、真柴さんからの業務指示はまだ有効だ。
声を使わないでください。
だから、こはるはテーブルのホワイトボードを手に取った。
【おはようございます】
「おはよう。よく寝られたか」
こはるは少し考えてから書く。
【何度か起きました。でも、寝ました】
「上出来だ」
【子供扱いです】
「大人扱いすると請求書が出る」
こはるはホワイトボードを少し傾けた。
【それ、何回目ですか】
「定番ネタは擦るものだ」
【配信者っぽいです】
「やめろ。古傷に塩を塗るな」
こはるは、声を出さずに笑った。
笑い方も少しずつ分かるようになってきた。
肩がほんの少し揺れる。
目尻が少し緩む。 口元をホワイトボードで隠そうとする。月乃こはねのように、分かりやすく笑わない。
でも、白瀬こはるは、ちゃんと笑う。俺はパソコンをこはるの方へ向けた。
「昨日のアーカイブ、残ってる」
こはるの表情が固まった。
すぐにホワイトボードに書く。
【消した方がいいです】
「そう思うか」
【はい】
ペン先が少し震えている。
【見つかったら、迷惑がかかります】
「誰に」
こはるは一瞬止まる。
それから、続けて書く。
【黒瀬さんに】
【芽衣さんに】 【商店街に】 【真柴さんに】 【聞いてくれた人にも】「自分は?」
こはるが俺を見る。
「お前には迷惑かからないのか」
こはるは、しばらく書けなかった。
やがて、小さく書く。
【私は、もう迷惑の原因なので】
「却下」
俺は即答した。
こはるがびくっとする。
「その言い方は却下。迷惑の原因って何だ。お前は台風か」
こはるは少し困った顔でホワイトボードに書く。
【台風ではないです】
「なら原因扱いするな」
【でも、私が来てから】
「俺の店は、昨日より客が増えた」
こはるが目を丸くする。
「八百屋のトマトも売れた。模型店のロボットも売れた。ゲームセンターに一人客が来た。佐伯さんは白湯を飲んだ。源さんは相変わらずまずいと言った。日向家は卵焼き陣営を拡大した」
【最後は私のせいですか】
「半分くらいは」
こはるは少し笑った。
それから、また真面目な顔になる。
【でも、アーカイブは危ないです】
「俺もそう思う」
【じゃあ】
「でも、消す前にコメントだけ読んでおけ」
こはるの手が止まる。
「怖いなら、俺が読む。嫌なコメントがあったら飛ばす。今のところ、変なのはない」
こはるはパソコン画面を見た。
逃げたい顔をしている。
でも、見たい顔もしている。その矛盾が、今の彼女らしかった。
俺は椅子を一つ引いた。
「座るか」
こはるは毛布を肩にかけたまま、ゆっくりソファから降りた。
まだ少しふらつく。
俺が手を貸そうとすると、彼女は一瞬迷ってから、小さく頭を下げた。肩を支える。
軽い。
相変わらず軽いが、昨日よりほんの少しだけ体温がある気がした。
カウンターの横に座らせる。
パソコン画面には、昨夜のアーカイブのコメント欄が並んでいる。
こはるは、画面を見る前にホワイトボードに書いた。
【変なことが書いてあったら、隠してください】
「分かった」
【怖くなったら、白湯ください】
「準備済み」
俺はカップを見せる。
こはるは少し安心したように頷いた。
そして、画面を見た。
最初のコメント。
【なんか落ち着く】
こはるは、しばらくその文字を見つめていた。
次。
【白湯飲みたくなってきた】
次。
【この時間に商店街の話いいな】
次。
【眠れないので来ました】
こはるの目が少し潤む。
俺は、黙っていた。
彼女はスクロールする。
【こんばんは】
【ゆっくりでいいよ】 【無理しないで】 【今日ちょっとしんどかったので助かる】 【白湯作ってくる】 【補給班いた】 【甘い卵焼き派です】 【出汁巻き派です】 【おやすみ】 【また聞きたい】 【ありがとう】こはるは、最後の「ありがとう」のところで止まった。
長い時間、動かなかった。
「大丈夫か」
俺が聞くと、こはるはホワイトボードに書いた。
【怖くないです】
それから、少し考えて書き足す。
【怖くないコメント欄、初めてかもしれません】
俺は、胸の奥が少し痛くなった。
コメント欄。
それは本来、配信者にとって一番近い場所のはずだ。
見てくれている人の反応。
笑い。 感想。 時には雑談。 画面越しでも、そこに人がいると分かる場所。でも、それが怖くなる。
俺も知っている。
あの四角い欄が、ある日突然、刃物の箱に変わることを。
「十二人のコメント欄は、ちゃんと顔が見えるな」
俺は、さっきの独り言をそのまま言った。
こはるが俺を見る。
「多すぎると、流れになる。少ないと、人に見える」
俺は画面を見た。
「昔の俺は、流れにばかり反応してた気がする。速いコメント。大きい数字。増える登録者。減る同接。そういうのばっかり見てた」
こはるは、ホワイトボードに書く。
【悪いことですか】
「悪いというか、疲れる」
【疲れます】
「だろうな」
こはるは、コメント欄の「また聞きたい」を見つめていた。
【また聞きたい、が怖くないです】
「月乃こはねの時は怖かったか」
こはるは少し迷った。
そして頷く。
【待ってるね、が重かったです】
「これは?」
【軽いです】
「軽い」
【押してこないです】
俺は、その表現に頷いた。
押してこない。
昨日の十二人は、こはるに「戻ってこい」と言わなかった。
「早く元気になって」とも、「毎日やって」とも、「もっと喋って」とも言わなかった。ただ、また聞きたいと残した。
その軽さが、今は救いだった。
こはるは、画面を見ながらホワイトボードに書いた。
【残してもいいですか】
俺は少し驚いた。
「アーカイブ?」
頷く。
「危ないと思うんじゃなかったのか」
【思います】
「じゃあ」
【でも、消したくないです】
その字は、少し震えていた。
【昨日、私が声を出した証拠なので】
俺は、何も言えなかった。
証拠。
月乃こはねとしてではなく。
謝罪でもなく。 仕事でもなく。白瀬こはるが、名前のない声で「こんばんは」と言った証拠。
それを消したくない。
その気持ちを、俺は否定できなかった。
「分かった」
俺は言った。
「残す。ただし、危なくなったら非公開にする」
こはるは頷く。
【はい】
「コメントも、俺が時々見る。変なのが来たら対応する」
【黒瀬さんがしんどくなったら?】
「……」
痛いところを突く。
俺は少し考えた。
「芽衣に投げる」
こはるが目を丸くする。
「冗談だ。半分」
【半分】
「源さんにも投げる」
【源さん、ネットできますか】
「たぶんできない。まずパスワードで怒る」
こはるが笑った。
その時、扉のベルが鳴った。
「おはよー! 朝の卵焼き便でーす!」
日向芽衣が、いつもの勢いで入ってきた。
いや、いつもより少し勢いを抑えている。
ソファを見る前に、ちゃんとこはるが起きているか確認しているあたり、彼女なりに気を遣っているのだろう。手には弁当袋。
「こはるちゃん、起きてる。おはよう」
こはるはホワイトボードに書く。
【おはようございます】
「今日の卵焼きは甘いの二切れ、出汁巻き一切れ。父さんが“派閥間の対立を避けるため”って」
「日向家で何が起きてるんだ」
「昨日、配信で卵焼き派閥の話が出たでしょ? 父さん、聞いてないのに母さんから聞いて張り切った」
「日向家内で二次拡散してる」
芽衣はカウンターに袋を置き、パソコン画面を覗き込んだ。
「アーカイブ見てたの?」
「ああ」
「消す?」
「残すことにした」
芽衣はこはるを見る。
「こはるちゃんが決めたの?」
こはるは頷いた。
そしてホワイトボードに書く。
【消したくないです】
芽衣は、その文字を見て、少しだけ目を細めた。
「そっか。じゃあ残そう」
「軽いな」
俺が言うと、芽衣は肩をすくめた。
「こはるちゃんが消したくないなら、残した方がいいじゃん」
「危険もある」
「あると思う。でも、何でも危ないから消してたら、こはるちゃんが昨日頑張ったのも消えちゃうでしょ」
芽衣は、袋から卵焼きの容器を取り出した。
「残すなら、守ればいいじゃん。コメント欄見張ったり、変なの来たら閉じたり。よく分かんないけど、そういうのあるんでしょ?」
「ある」
「じゃあそれで」
「シンプルだな」
「弁当屋なので。傷みそうなら冷蔵庫。食べられそうなら売る。危なそうなら下げる」
「全部食べ物で来るな」
「分かりやすいでしょ」
こはるがホワイトボードに書く。
【分かりやすいです】
「ほら」
芽衣は得意げだった。
そこへ、源三さんが入ってきた。
「黒瀬」
「はい」
「コーヒー」
「おはようございますくらい言いません?」
「朝から余計な言葉を使うな」
「コーヒーは余計じゃないんですね」
「必要だ。まずいが」
通常運転だった。
こはるがホワイトボードに書く。
【おはようございます】
源三さんはそれを見る。
「おう」
短い。
しかし、悪くない。
こはるは続けて書いた。
【昨日、十二人いました】
源三さんは新聞をカウンターに置いた。
「何が」
「昨日のラジオです」
俺が答える。
「聞いてくれた人が十二人」
源三さんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「十二人もいたのか」
こはるの目が少し大きくなった。
俺も少し驚いた。
源三さんは続ける。
「この商店街で十二人集めようと思ったら大変だぞ」
「確かに」
芽衣が頷く。
「商店街会議、六人しか来ない時あるもんね」
「日向、余計なことを言うな」
「本当じゃん」
「十二人は多い」
源三さんは、こはるを見た。
「よくやった」
こはるの手が止まった。
それから、ゆっくりホワイトボードに書く。
【ありがとうございます】
源三さんは少し目を逸らす。
「礼を言われるほどのことは言っとらん」
「照れてる」
芽衣が小声で言う。
「照れとらん」
「照れてる時の声だ」
「日向、弁当屋に戻れ」
「ひどい」
こはるは、声を出さずに笑っていた。
朝の喫茶こもれび。
まずいコーヒー。
卵焼き。 白湯。 十二人のコメント欄。それだけなら、平和だった。
だが、平和はいつも長続きしない。
俺のスマホが震えた。
テーブルの上で、短く一度。
全員の視線がそちらへ向いた。
こはるの表情が固まる。
芽衣も、源三さんも黙る。
俺は深く息を吐いた。
「見る」
誰に言うでもなく言って、スマホを手に取った。
通知は、神谷レンからだった。
【昨日の配信、聞いたよ。いい声の子だね】
指先が冷たくなる。
俺は、表情を変えないようにした。
だが、たぶん失敗した。
芽衣がすぐに言う。
「悠斗兄、顔」
「分かってる」
「何?」
俺は少し迷った。
隠すか。
見せるか。昨日の夜から、この選択ばかりしている。
でも、こはるのことに関わるなら、本人に隠し続けるのは違う。
俺は画面をこはるには直接見せず、まず芽衣と源三さんにも聞こえるように読み上げた。
「神谷レンから。昨日の配信、聞いたよ。いい声の子だね、だと」
こはるの顔から血の気が引いた。
ホワイトボードを握る手が震える。
芽衣が低い声で言った。
「何それ」
源三さんは眉間の皺を深くする。
「そいつは何者だ」
「俺の昔の配信仲間です」
「昨日言っとった、嫌なやつか」
「だいぶ雑に言えば」
「なら嫌なやつだ」
「判断が早い」
こはるはホワイトボードに書こうとして、ペンを落とした。
拾おうとする手が震えている。
芽衣がそっとペンを拾い、彼女の手元に戻す。
「こはるちゃん、息」
こはるは小さく頷いた。
息を吸う。
吐く。
何度か繰り返してから、震える字で書いた。
【聞かれていたんですか】
「そのようだな」
【声、分かりましたか】
「分からない」
俺は即答した。
こはるが俺を見る。
「分かったかどうかなんて、あいつの文面だけじゃ分からない。“いい声の子”って言い方は、ただの揺さぶりかもしれない」
【でも】
「でもじゃない。まだ決めつけるな」
自分にも言い聞かせるように言った。
神谷レンが何を知っているかは分からない。
だが、あいつはこういう言葉を選ぶ。
相手が一番気にしている場所に、優しい顔で触れてくる。
いい声の子。
こはるにとって、それがどれだけ重い言葉か分かっているのか。
分かっているから書いたのか。こはるは、ホワイトボードに続けて書く。
【消した方がいいです】
さっきとは違う。
これは恐怖からの言葉だった。
俺は、すぐには答えなかった。
芽衣がこはるの隣に座る。
「こはるちゃん、今決めなくていい」
【でも、聞かれました】
「聞かれたからって、すぐ全部消すと、あいつの思う通りじゃない?」
芽衣の声は少し怒っていた。
「あいつが嫌なメッセージ送ってきて、こはるちゃんが怖くなって消す。それ、何か悔しい」
こはるは、芽衣を見る。
芽衣は続ける。
「もちろん、本当に危ないなら消そう。こはるちゃんがしんどいなら消そう。でも、今すぐじゃなくていい。卵焼き食べてから考えよう」
「また卵焼きか」
俺が言うと、芽衣は睨んだ。
「大事な判断は血糖値上げてから!」
「日向家ルール強いな」
源三さんも腕を組む。
「飯を食ってから考えるのは、悪くない」
「源さんまで」
「空腹の判断はだいたい間違う」
「名言っぽい」
「実感だ」
こはるは、卵焼きの容器を見た。
甘い卵焼き。
出汁巻き。 日向家の平和条約みたいに並んでいる。しばらくして、彼女は甘い方を一切れ取った。
食べる。
ゆっくり噛む。
飲み込む。
それからホワイトボードに書いた。
【今すぐは、消しません】
芽衣が、ほっと息を吐いた。
俺も頷いた。
「分かった。なら、俺がコメントと反応を見張る。変なのが増えたら、すぐ非公開にする」
【黒瀬さんは、大丈夫ですか】
「大丈夫じゃない」
正直に言った。
こはるの目が揺れる。
「でも、一人で見るよりはましだ。芽衣もいる。源さんは……まあ、ほうきがある」
「わしを何だと思っとる」
「ほうき担当」
「そんな担当はない」
こはるが少しだけ笑った。
その笑いを見て、俺はスマホを握り直した。
神谷レンへの返信はしない。
少なくとも、今は。
だが、数分後。
また通知が来た。
【久しぶりに君の声も聞きたいな。昔みたいに一緒に話そうよ】
俺は、画面を見つめた。
昔みたいに。
どの昔だ。
配信で笑っていた頃か。
コラボで数字を取り合っていた頃か。 それとも、炎上時にあいつが綺麗な顔で俺を切り捨てた頃か。手が震えた。
通知音は鳴っていない。
ただ画面に文字が出ただけ。それでも、身体は覚えている。
炎上の時、次々と流れてきた通知。
謝っても増えるコメント。 説明しても届かない声。こはるが、俺の手元を見ていた。
ホワイトボードに書く。
【黒瀬さん】
俺は画面から目を離す。
「大丈夫」
【嘘です】
即座に書かれた。
芽衣が小さく言う。
「こはるちゃん、顔診断うまくなってる」
「嬉しくない成長だな」
俺はスマホを伏せた。
「大丈夫じゃない。でも、今は返さない」
源三さんが言った。
「返さんでいい。嫌な客には茶を出すな」
「客ではないですけど」
「同じだ。店に入れたくない奴は、戸の外に置け」
シンプルだった。
でも、妙に腑に落ちた。
神谷レンは、まだ店の外にいる。
こちらが扉を開けるかどうかを、向こうで待っている。
俺はまだ、その扉を開けなくていい。
「そうですね」
俺は頷いた。
「今は戸の外に置きます」
芽衣が、カウンターの卵焼きを指差した。
「じゃあ、店の中の人たちは朝ご飯」
「お前は本当にブレないな」
「ブレたら唐揚げが焦げる」
「それ、もう座右の銘にしろ」
こはるがホワイトボードに書く。
【ブレたら唐揚げが焦げる】
「書かなくていい」
芽衣は笑いながらも、少しだけ涙目だった。
たぶん、みんな怖い。
俺も。
こはるも。 芽衣も。 源三さんも、たぶん少しは。神谷レンの名前は、俺たちの小さな朝に、確かに影を落とした。
それでも。
喫茶こもれびのテーブルには、白湯があり、卵焼きがあり、まずいコーヒーがあり、十二人のコメント欄がある。
今朝の俺たちにできることは、それを一つずつ守ることくらいだった。
昼前、アーカイブの再生数は五十を超えた。
コメントが一つ増えていた。
【昨夜の声、また聞きたい。でも無理はしないで】
こはるは、そのコメントを見て、少しだけ目を潤ませた。
そしてホワイトボードに書いた。
【また、が怖くないです】
俺は頷いた。
「なら、まだ残しておこう」
【はい】
その時、俺のスマホがまた震えた。
神谷レンではなかった。
真柴さんからだった。
『神谷さんが、昨夜の匿名配信について事務所に問い合わせてきました。白瀬さん本人とは無関係と回答して問題ありませんか』
俺は、こはるに画面を見せた。
こはるはしばらく黙っていた。
そして、ホワイトボードに書いた。
【嘘になりますか】
「なるな」
【でも、本当と言ったら】
「危ないな」
【どうすれば】
「それを考えるのが大人の仕事だ」
俺はそう言って、少しだけ笑った。
「と言いたいところだけど、俺も大人としてはだいぶ怪しい」
芽衣が横から言う。
「じゃあ、みんなで怪しい大人会議」
「二十一歳が大人側に入ってきた」
「昨日から入ってる」
源三さんが新聞を畳んだ。
「言い方を変えろ」
「どういうことですか」
「無関係かどうかを答えるから詰まる。関係を問う必要がないと言えばいい」
俺たちは源三さんを見た。
源三さんは、当然のようにコーヒーを飲む。
「まずい」
「いや、今それじゃなくて」
「匿名の配信だろうが。なら、誰かと結びつけて語るなと返せばいい。本人だ、本人じゃないの話に乗る必要はない」
俺は少し黙った。
なるほど。
無関係ですと言えば、嘘になる。
関係ありますと言えば、特定に近づく。でも、「匿名配信を特定の個人と結びつける問い合わせには答えない」という形なら、まだ筋が通る。
「源さん」
「何だ」
「たまに本当に商店街会長っぽいですね」
「いつもだ」
芽衣が感心した顔で言う。
「源さん、ネット分からないのに強い」
「人間の面倒は、昔から変わらん」
源三さんは新聞を広げた。
「見たくないものに返事をするな。入れたくない客は戸の外。だが、店の中の客には茶を出せ」
こはるはホワイトボードに書いた。
【店の中の客には茶を出せ】
「それ、源さん語録になるな」
俺は真柴さんへ返信した。
『匿名配信を特定個人と結びつける問い合わせには回答しない、という形が良いと思います。本人の療養を優先してください』
数分後、真柴さんから返事が来た。
『その方針で対応します。ありがとうございます』
さらに続けて、
『卵焼きはまだありますか』
俺は画面を見て、思わず笑った。
芽衣が覗き込む。
「真柴さん、陣営入り確定」
こはるもホワイトボードに書く。
【あります】
俺は返信した。
『あります。甘いのと出汁巻きです』
真柴さんから、短く返ってきた。
『甘い方で』
芽衣が立ち上がった。
「よし、真柴さんにも届けよう」
「事務所まで?」
「無理だけど、気持ちだけ」
「気持ちの卵焼き」
「強そう」
こはるは、声を出さずに笑った。
午後になっても、アーカイブは残したままだった。
再生数は少しずつ増えたが、大きく跳ねることはなかった。
コメントも穏やかなものばかりだった。神谷レンからの連絡は、その後しばらく止まった。
止まっていることが、逆に不気味だった。
でも、今はそれでいい。
店の外では、八百屋のトマトが売れ、模型店の戦車ポップが書き直され、ゲームセンターの朝日さんが「ラジオでうちの筐体の音を流せ」と言い出した。
芽衣は「次の配信で日向弁当のCMを入れよう」と言い、俺が却下した。
こはるはホワイトボードに、
【CM、少し聞きたいです】
と書いたので、芽衣が調子に乗った。
「日向弁当、唐揚げ揚げすぎ、愛情重すぎ、でも冷めてもおいしい!」
「最後だけ普通に良い」
俺が言うと、芽衣は胸を張った。
「採用?」
「保留」
「保留って白湯だっけ?」
「卵焼き会議のルールを引きずるな」
こはるは、また笑った。
夕方、こはるは昨日の配信アーカイブをもう一度見た。
自分の「こんばんは」を聞いた瞬間、顔を真っ赤にしてホワイトボードで顔を隠した。
【下手です】
「下手だな」
俺が言うと、こはるはびくっとする。
「でも、いい」
【いいんですか】
「ああ。上手い声なら、月乃こはねで十分だろ。これは、上手くないからいいんだと思う」
こはるは、画面の中の自分の声を聞いた。
ここは、夜の商店街です。
まだ、明かりがついてます。その声は震えている。
でも、嘘ではなかった。
こはるは、ゆっくりホワイトボードに書いた。
【私の声ですか】
「そうだな」
【月乃こはねじゃなくて】
「ああ」
【白瀬こはるでもなくて】
「名前のない声だな」
こはるは、その言葉を見つめるように黙った。
そして、小さく頷いた。
【名前のない声】
日が落ちる頃、喫茶こもれびの看板灯がついた。
商店街には、ぽつぽつと明かりが灯る。
終わりかけの商店街。
でも、まだ明かりはついている。昨夜の十二人は、夢ではなかった。
コメント欄は残っている。
アーカイブも残っている。 こはるの声も、そこに残っている。そして、神谷レンの影も、確かに近づいている。
その夜、配信はしなかった。
こはるの喉を休ませるためだ。
代わりに、こはるはホワイトボードにこう書いた。
【今日は聞く側になります】
「何を?」
俺が聞くと、こはるは少し考えて、書いた。
【商店街の音】
だから俺たちは、閉店後の店内でしばらく黙っていた。
日向弁当のシャッターが下りる音。
源三さんが外で誰かに文句を言う声。 遠くのゲームセンターから漏れる電子音。 風で揺れる看板。 コーヒーサーバーの小さな音。こはるは、それをじっと聞いていた。
画面の向こうでは、きっとまだ誰かが噂している。
でも、この店の中では、今、商店街の音だけがあった。
そして深夜、俺のスマホに神谷レンから新しいメッセージが届いた。
【返信ないから心配してるよ。君、また逃げるの?】
俺は画面を見た。
手は震えた。
でも、前より少しだけ、呼吸ができた。
店の中には、こはるの書いたホワイトボードが置いてあった。
【店の中の客には茶を出せ】
俺はスマホを伏せた。
まだ、戸は開けない。
そう決めた。
第16話 役に立たない日のラジオ 翌朝、喫茶こもれびのテーブルには、白湯と卵焼きと、昨日のラジオのコメント欄が並んでいた。 正確には、コメント欄はノートパソコンの画面の中にある。 でも、感覚としては、テーブルの上に置かれているようだった。 白湯のカップ。 少し焼き目のついた甘い卵焼き。 日向弁当の小さなおにぎり。 そして、夜のどこかから届いた、知らない人たちの言葉。【いいと思う】【今日、何もできなかった】【仕事休んだ】【学校行けなかった】【一日布団にいた】【でも今これ聞いてる】【役に立てない日、あります】【生きてていいって言ってほしい】【白湯しか飲んでない】【でも白湯飲めたから勝ちにしたい】 白瀬こはるは、そのコメント欄を何度も読んでいた。 朝から、ずっと。 声は出していない。 喉を休ませるためでもあるし、昨日の電話と配信で、心の方が疲れているのもあった。 それでも、こはるは画面から目を離さなかった。 俺はカウンターでコーヒーを淹れながら、その様子を見ていた。「読みすぎると疲れるぞ」 こはるは、ホワイトボードに書いた。【疲れます】「じゃあ休め」【でも、読みたいです】「疲れるのに?」【はい】 少し間を置いて、彼女は書き足す。【私だけじゃなかったので】 その文字を見て、俺は何も言えなくなった。 昨夜、こはるはラジオで問いかけた。『誰かの役に立てない日も、生きていていいんでしょうか』 それは、誰かに向けた問いであると同時に、こはる自身がずっと自分に投
第15話 こはるの母からの電話 白瀬こはるの母親から連絡が来たのは、昼過ぎだった。 その日は、ラジオを休みにする予定だった。 こはるの喉は昨日より落ち着いていたが、まだ長く話すと掠れる。 真柴さんからも「今日はなるべく声を使わないでください」と連絡が来ていたし、芽衣も「今日は完全休養。補給班命令」と言っていた。 だから、喫茶こもれびの昼は比較的静かだった。 源三さんは午前中に来て、コーヒーを飲み、いつも通り「まずい」と言って帰った。 佐伯さんはナポリタンではなく白湯だけ頼み、「白湯って、何もしない味がするわね」と謎の名言を残した。 八百屋の親父さんはきゅうりのポップが気に入ったらしく、「まっすぐじゃないけど、ちゃんと冷たい」が売れていると報告しに来た。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードではなくメモ帳に新しいポップ案を書いていた。『古いゲーム機です。 でも、負けた時の悔しさは新しいです。』 ゲームセンターの朝日さん用らしい。 俺がそれを見て「名文だけど客が怖がらないか」と言うと、こはるは少しだけ笑い、下にこう書き足した。『勝ったら、もっと新しいです。』「商売が分かってきたな」 俺が言うと、こはるはホワイトボードに書いた。【商店街に染まってきました】「染まると戻れなくなるぞ」【少し怖いです】「だろうな」【でも、嫌じゃないです】 その文字を見て、俺は少しだけ安心していた。 嫌じゃない。 最近のこはるは、その言葉をよく使うようになった。 好き、と言うにはまだ怖い。 楽しい、と言い切るにはまだ心が追いつかない。 でも、嫌じゃない。 そのくらいの距離感が、今の彼女にはちょ
第14話 芽衣は、少しだけ面白くない 日向芽衣は、明るい。 少なくとも、この商店街ではそういうことになっている。 日向弁当の娘。 いつも声が大きくて、配達用の自転車を全力でこいでいて、揚げたての唐揚げを一つ多く入れたことを母に怒られ、父の揚げすぎを止め、常連の老人に雑に絡み、客の愚痴を「はいはい」と聞き流しながら、最後には笑って弁当を渡す。「芽衣ちゃんがいると、店が明るくなるね」 そう言われるのは、嫌いではなかった。 むしろ、嬉しかった。 自分がいることで、誰かが少し楽になるなら。 沈みかけた商店街の中で、日向弁当の灯りが少しでも明るく見えるなら。 それは、まあ、悪いことではない。 でも、たまに思う。 明るいって、便利な言葉だ。 明るい子は怒らない。 明るい子は面倒を拾える。 明るい子は、冗談で返せる。 明るい子は、ちょっと傷ついても次の日には笑っている。 そんなルール、誰も言っていない。 言っていないのに、いつの間にか自分で守っている。「……面倒くさ」 芽衣は日向弁当の厨房で、卵焼きを巻きながら小さく呟いた。 朝の仕込みは戦争だ。 父は唐揚げを揚げている。 母はレジ横の予約表を確認している。 炊飯器からは湯気。 まな板の上には、刻まれた漬物。 ラジオからは、天気予報と交通情報。 いつもと同じ朝。 なのに、芽衣の頭の中には、昨夜の匿名ラジオのコメントが残っていた。【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】 あれは、たぶん自分にも関係がある。 認めたくないけど、ある。「芽衣、
第13話 白湯ラジオ、二回目 翌朝、喫茶こもれびのカウンターには、おにぎりと卵焼きと白湯が並んでいた。 喫茶店とは。 いや、もう考えないことにした。 この店は、数日前から喫茶店というより避難所であり、商店街会議室であり、謎の匿名ラジオ局であり、日向弁当の出張所でもある。 コーヒーだけは一応ある。 ただし、常連の老人から毎日まずいと言われる。 俺はカウンターに立って、昨夜の短い配信アーカイブを確認していた。『夜の商店街、まだ明かりついてます』 二回目……と呼ぶには少し短かった。 正確には、予定外の短い放送。 テーマは、優しい言葉が怖い日。 こはるは、たどたどしい声で言った。『優しい言葉が、怖い時があります』 その言葉は、コメント欄に思ったより深く刺さっていた。【分かる】【大丈夫?って聞かれるのしんどい時ある】【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】【おにぎり食べます】【白湯とおにぎり、優勝】 最後だけ急に生活感が強い。 だが、悪くなかった。 むしろ、このラジオはそういうものなのかもしれない。 深刻な話をしているのに、最後は白湯や卵焼きやおにぎりへ戻ってくる。 逃げているようで、逃げていない。 重いものを、食べられる大きさに切り分けている感じ。 俺には、そう見えた。 ソファでは、白瀬こはるがホワイトボードを膝に乗せて座っている。 声はまだ完全ではない。 昨夜、少し話した後はまた喉が詰まった。 真柴さんからも「声は短時間のみ。無理をしないでください」と追加の連絡が来ている。 業務指示が少し人間らしくな
第12話 神谷レンは、優しい顔で火を近づける 神谷レンという男は、昔から文章がうまかった。 うまい、というより、綺麗だった。 角がない。 刺がない。 読み手が勝手に好意を補ってくれる余白がある。 たとえば、今朝届いたメッセージもそうだ。【昨日の配信、聞いたよ。いい声の子だね】 ただ読むだけなら、褒め言葉だ。 昨日の匿名ラジオを聞いた。 声がよかった。 それだけ。 何も悪いことは書いていない。 誹謗中傷でもない。 脅しでもない。 むしろ、優しい。 けれど、その「優しさ」の形が、俺の胃の奥を冷たくした。 いい声の子。 それは、こはるの一番柔らかい場所に触れる言葉だった。 彼女は声で生きてきた。 声で救われ、声で求められ、声で追い詰められ、声が出なくなった。 それを知っているのか。 知らずに言ったのか。 どちらにしても、嫌だった。 俺は喫茶こもれびのカウンターで、スマホを伏せたまま、しばらく動けずにいた。 午前中の店内は、いつも通り静かだった。 源三さんは新聞を読みながら、まずいコーヒーを完飲している。 芽衣は弁当屋に戻ったり、また来たりを繰り返している。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードを膝に置き、昨日のアーカイブのコメント欄をゆっくり読んでいた。 たった十二人のコメント欄。 その小さな場所が、今の彼女には大事だった。 だからこそ、俺は神谷レンのメッセージをどう扱うべきか迷っていた。 見せるべきか。 見せないべきか。 隠せば、こはるは今の穏やかな顔のままでいられるかもしれない。
第11話 同接十二人の朝 朝になっても、十二という数字は消えていなかった。 喫茶こもれびのカウンターに置いたノートパソコンの画面に、昨夜の配信アーカイブが残っている。 番組名は、まだ少し照れくさい。『夜の商店街、まだ明かりついてます』 最大同時接続数、十二人。 総再生数、三十四。 コメント、二十七件。 どれも、昔の俺なら気にも留めなかった数字だ。 いや、気にも留めなかったどころか、見た瞬間に胃が沈んでいたと思う。 登録者八十万人の頃、同接が少し落ちただけで、俺は配信後に何度もアナリティクスを見直していた。 何分で離脱されたか。 どの話題でコメントが減ったか。 どのゲームなら数字が取れるか。 次は誰とコラボすれば伸びるか。 そんなことばかり考えていた。 十二人。 昔の俺なら、敗北の数字だった。 でも昨夜、こはるは言った。「十二人も、いました」 その声が、まだ耳に残っている。 細くて、掠れていて、泣いた後の、でもどこか嬉しそうな声。 俺は、パソコン画面を見つめながら、冷めかけたコーヒーを飲んだ。「まずい」 自分で言ってしまった。 悔しいが、まずい。 源三さんに毎日言われているせいで、味覚まで洗脳されてきたのかもしれない。 ソファの方を見る。 白瀬こはるは、毛布にくるまって眠っていた。 昨夜の配信後、彼女は卵焼きを一切れ食べ、白湯を飲み、それから力尽きるように眠った。 スマホはタオルに包まれたまま、テーブルの端に置いてある。 途中で何度か震えた。 俺のスマホも、何度も震えた







